ぴぴこ(ぴぴこ)です♪
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というわけで、「ネットとネットワークビジネスと私」の【第3話】を更新をしたいと思います。
※【第2話】はコチラから読めます
今回は【第3話】ということで、2011年3月の東日本大震災が起きた瞬間、私はちょうど埼玉県の行田市から熊谷市のあたりを通っている国道17号線付近にいたところから場面がスタートして、そこから時間軸は今回のストーリー内でかなり一気に進んでいきます。
連載ストーリー「ネットとネットワークビジネスと私」
【第3話】私、ブロガーになる!絶対ブログで稼ぐ!と決断したあの日(前編)
お友達のリカちゃんと、リカちゃんの娘さん、それにうちのリリコちゃん(娘のハンドルネーム)とで、国道17号線沿いにあったローソンの店内に恐る恐る入ってみると、店内の床一面に商品が散乱していました。
さいわいなことに、お酒の入ったガラス瓶などは割れてはいなかったのですが、商品を陳列する棚からパンやお菓子や雑誌類、それにレジ側の備品などが床に落ちて、とにかく足の踏み場がないくらいで、私たちは驚きました。
店員さんは2名程、40代くらいの女性の方がレジのところにいらっしゃり、すぐに店内の床に散らばった商品を拾うなどの行動もできないくらいにとても動揺しているようでしたが、私は意を決して店員さんたちに声をかけてみることにしました。
「あの、、すみません、今大きな地震があって、、、ちょっと子どものお水だけ少し買わせていただくことはできますか?」
すると、パッと接客モードに切り替わったように、店員さんの一人がきりっとした接客のプロの表情になり、こう言いました。
「はい、、今レジが全然動かないので、たぶん・・・現金決済だったら大丈夫なのですが、現金払いができますか?必要なものがあったら、今のうちに何でも買われてくださいね!」
日本人がもともと持っている国民性として、規律性が高かったり、社会秩序を守る行動が咄嗟にできるのは、本当に凄いことだなとこの時感じました。
なので、私は、
「わかりました、ありがとうございます。それじゃあちょっとペットボトル持ってきますね」
「お足元お気をつけてくださいね、お子様たちも・・・」
「はい*^^*」
というやりとりをして、子どもたちは店内を歩かせると危ないので、それぞれで抱っこしながら、コンビニ店内の奥にあるペットボトルのショーケースのところまで、散乱している商品を踏まないように気をつけながら行きました。
わずか数メートルの距離なのに、物凄く気を遣う動きをしたのを今でも覚えています。
店内の音楽も完全に止まって、照明も全部消えて、冷蔵庫の電源も切れていたので、ショーケースのガラス扉を開ける前にどのペットボトルを買うか注意深く、でもなるべく早く決めてから、冷気が逃げないようにさっと目的のアイテムをゲットするように気をつけました。
私もリカちゃんも、ミネラルウォーターとお茶の500mlのものを2個ずつ買うことにしました。
電気の通っていないレジの前で、手書きで売った商品を書き出しながら、ローソンの店員さんは現金決済をしてくれて、帰り際に、
「お気をつけてお帰りくださいね!!」
と、凄く力強く言ってくれました。
きっと店員さんだって突然のことで内心は凄く動揺していたかもしれないし、ご家族がいたらかなり心配な気持ちだったろうけど、、、緊急事態の中で励まし合う日本人の優しさに触れて、私も気持ちを強く持たないと、、、と励まされました。
ローソンの駐車場で、リカちゃんとは、「ここからお互い気をつけてゆっくり帰ろうね」ということと「また落ち着いたら一緒にゆっくりランチしようね」と約束して、それぞれの車に乗り込みました。
激しい揺れの第一波が来た時に、完全に熟睡していたリリコちゃんはまた車のチャイルドシートに載せたら、もにゃもにゃしているうちに眠り出したので、私はほっと少し安堵しました。
不安な空気を娘に感じさせたくないな、と思っていたので、眠ってくれているうちにおうちまで安全に帰ろうと決意にも近いような気持ちだったのです。
この日、ここから自宅までの帰り道、どんな空だったのか、どんな天気だったのか、全く記憶に残っていません。
というのも、埼玉県北部がかなり広範囲で停電していたために、すべての信号機は電源が落ちた状態で、普通だったら時速40キロで走れる道をその半分くらいのスピードで進まないといけなくて、目の前の道路にとにかく集中していたからだったと今振り返ると思います。
自宅までの道のりは約20キロ。
普段なら30分ちょっとで行ける距離ですが、この日は倍の時間をかけて、ゆっくりゆっくり進んでいきました。
もうその頃には私のdocomoのガラケーは全く通信機能が使えなくなり、元夫のポポタンとも実家の両親とも連絡が取れない状態になってしまいました。
道路沿いの民家に少し目線をやると、瓦の屋根はパッと見でも瓦が大きくずれているところもあったり、少し道が渋滞して来たなと思ったら、そこの近所の方が自主的に交通整理をしていて、古民家で火災が発生しているので道を迂回してほしいということを車のドライバーに直接訴えていました。
今までに見たことがない状況です。。
さすがに不安になって、一応埼玉県内のFMラジオ「ナックファイブ」をカーステレオでつけてみると、
- どうやら今回の地震の震源地は東北の日本海側の県(岩手県・宮城県・福島県)近辺、そして茨城県や千葉県などの関東も震源地に近いらしいこと
- 津波警報が出ていること
- 停電が発生していること
はなんとなくわかりましたが、それ以上の詳しい情報はわかりませんでした。
どれくらい時間が経ったのでしょうか。
やっとの思いで、当時の自宅アパート近くの大きな国道も、信号機が全くついていない状態で車同士譲り合いをしながら横断をしまして、自宅に戻って来ることができました。
リリコちゃんを起こして、車から荷物を持って、無事に自宅の扉を開けることができたのですが、さすがに何か自宅のものが落ちたり壊れたりしていないか、注意深く家の中に “踏み込む” ような姿勢で帰宅しました。
結果さいわいなことに、自宅内は全く揺れがなかったかのように、物が落ちることもなく、いつも通りのままで本当に安堵しました。
いつも通りの日常が、どれだけしあわせなことなのか、この時心の底から痛感しました。
ただ、携帯電話だけじゃなく固定電話も使えない状態になってしまっていたので、私と娘の無事自宅到着を誰にも伝えることができません。
自宅も停電状態になっていたので、冷蔵庫を何度も開け閉めすることはできないなと思って、冷気が残っているであろう冷蔵庫はもうそのままにして、
「どうしようかな、、、」
と思っていた頃に、なんと元夫のポポタン(当時は夫)が帰宅して来ました。
時計を見ると、17時ちょっと手前くらいでした。
会社も停電になってしまったようで、ほとんどの社員は帰宅命令&自宅待機となったそうなのです。
この頃はまだ比較的夫婦仲が良かったので(笑)、家族が無事揃ったとほっと安堵感を感じた感覚を、今思い出すととても懐かしいですねぇ(遠い目)
でも、お互いの無事を夫婦でハグしあって喜ぶようなことはなくて、淡々と無事を確認した、という感じでした。
そして、自宅アパートがプロパンガスだったため、なんと不幸中の幸いでお湯を沸かしたり、温かい食べ物を少し作ることができました。
調理したお鍋ごとバスタオルに包んで、近所の元夫の実家にそれらを持って行きまして、毛布に包まって皆で集まって暖気を保ちながら、まずは夕食をほぼいつも通り取れてリリコちゃんはいつも通り元気いっぱいで、本当に安心したものです。
夜になって、街灯が一個もついていない夜道をポポタンの運転する車に乗って、(当時の)家族3人で帰宅して、とにかくその日は寝ることにしました。
帰り道で車の窓から眺めた、電気の全く通っていない夜の田舎は、漆黒の暗闇がちょっと怖いような・・・でも空を見ると夜空に星空が瞬き、それがいつもよりも輝いているように見えました。
大自然の息吹を感じることができて、いつもより一層深呼吸しやすい気がして、なぜだか美しいと感じずにはいられませんでした。
翌朝の5時くらいだったでしょうか。
トイレに起きた私は、アパートの部屋の天井に設置してある火災報知器の電源ランプがうっすらと黄緑色に点灯していることに気づきました。
「あ!!」
リリコちゃんもポポタンもまだ寝ている中で、私は思わず大きな声を出してしまいました。
「電気通ってるかも!!」
当時は全く知識がなくて、今思えばとても危なかったなと思うのですが、まずはリビングの電気を点けてみることにしました。
※停電後に電気が流れる時には、通電前に家電製品の状況を確認する必要があると後で知りました^^;;;
パチンとスイッチを押すと、いつも通りに電気が点くのです。
当たり前かもしれませんが、いかに当たり前の日常がありがたいのか、この時痛感することになります。
その時は純粋に嬉しい気持ちと、電気・ガス・水道というライフラインがいつも通り使えることに心の底から感謝の気持ちが湧いてきました。
そういう素直な気持ちで、
「そうだ、テレビもつけてみよう」
と思いました。。
すると、そこからはもうあなたも知っての通りでして、テレビの画面の向こうには
信じられない光景
が広がっていて、停電の間全くテレビが見れなかったために、周囲の状況がわからなかった自分を激しく悔やむくらい、悲しみを通り越してもう言葉が出ないくらいでした。
そんな2011年3月12日の朝を迎えるのですが、今度は福島第一原発の事故の報道も走り、東京湾のどこかでも石油貯蔵施設関連で火災が起きているなどの情報も入ってきて、東日本の地域はほとんど混乱を来たしていたのではないでしょうか。
そのため、揺れがそれほど大きくなかった埼玉県内でも、ガソリンが買えなくなったり、お米やミネラルウォーターがスーパーから一瞬で姿を消したりと、生活物資の滞りが発生しました。
ガイガーカウンター(放射線測定器)と言う言葉も、この時初めて知ることになります。
2020年のコロナ禍よりも9年も前に、あの時は放射能という見えない脅威によって、洗濯物を外に干せなくなり、気軽に公園の遊具を触れなくなり、道端に以前と同じように美しく咲く草花に娘のリリコちゃんが触ろうとしたらそれと止めないといけなくなり、、、さすがに、
「どうしよう・・・こんな状況がずっと続くのだろうか・・・」
と恐怖と不安と心配とで、気が抜けない日がそこからしばらく続くことになります。
しかし、人間はどんな状況でも、慣れてくると少しだけ心に余裕が出てくるもので、様々な放射能対策に関して調べてみた結果、日本人の知恵を思い出して、味噌等の発酵食品をとにかく食卓に多く取り入れて、免疫力を高めようとかなり気を配るようになりました。
それが3月20日前後くらいのことだったと思います。
当時のママ友さんの中には、東日本大震災がきっかけで「沖縄県に移住する」と決断して、本当に引っ越して行った方もいました。
あの頃は2020年からのコロナ禍とはまた違う側面で、社会情勢の急激な変化とそれに伴う生活パターンの大幅な変更に、各自でなんとかリズムを取り戻そうとしていた時期のようにも思います。
ぴぴこさんのあの頃の気持ちとしては、まず、自宅で暮らせることに感謝でしたし、田舎特有の落ち着きのある住宅街だったり、あたり一面を水平線まで見渡せるんじゃないかというくらいの関東平野の田園風景を、運転しながら見るのが大好きだったので、
「これからの人生、何に挑戦して、どんなことを実現するのか、自分の可能性を100%出し切って楽しむことや、社会に役立つ何かを見つけてやっていこう。生きていることは当たり前じゃない、奇跡なんだ」
と、強く感じて、今まで当たり前だったものに感謝できるようになりました。
言わば、人生の大転換期の起点になったとも言えるようなディープな爪痕が刻まれた時期だったと思います。
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そして。
wikipediaにも掲載されているのですが、3月30日と31日には、福島県浜通りに位置する双葉町の町民の方々が埼玉県加須市にあった旧・騎西高校に一斉に避難されることを直前で知ることになります。
1000人以上の方が、大型バス10台以上でいらっしゃったと記憶しています。
今でも忘れられないのですが、、、着の身着のままで避難をされて、急な生活環境の変化で老若男女問わず全世代の方が福島県から埼玉県北部までの約250キロ以上もある道を移動して来られたのです。
そして、加須市の住民の方も、突然の事態をどうにか少しでも居心地よく仮住まいしていただこうという気持ちで、急遽各地の自治体や団体がボランティアを旧・騎西高校に派遣して、双葉町の方の生活をサポートしようと試みることになります。
※福島県双葉町の東日本大震災アーカイブスさんHPから画像をお借りしています
あの頃、上記画像の通り、旧・騎西高校はグラウンドが大駐車場になっていて、避難されている方々やボランティアの方々の車の往来がとても多かったものです。
2011年4月は、今まで経験したことのない混乱を日常生活の中で慢性的に抱えながら、やっとほっと一息つけるなと思って迎えたゴールデンウィークは藤の花が例年にも増してキレイだったのを今でも覚えています。
自然の営みに癒されて、「だから、私も自分にできることをがんばってみよう」と心新たにしたものです。
そして。
GWが明けてから、私はある異変に気づきました。
朝の時間帯、午前中の時間帯、娘を連れて食材の買い出しのために近所の国道を車で走っていると、いわきナンバーの車、福島ナンバーの車が、一斉に県南方向に走っていくのです。
しばらく経ってから気づいたのですが、双葉町から避難された方々や、周辺地域から埼玉県北部に避難された方々に対して、埼玉県が再就職先のあっせんをしてくれていたようで、多くの働き盛りの世代の方々は埼玉県内等で転職先を見つけて、GW明け頃から出勤をし始めていたようなのです。
「今まで働いていた職場に、急に行けなくなって、家も仕事も何もかも手放して着の身着のままで避難された方々の数がものすごく多いんだな・・・」
震災以前には、当時の加須市ではほとんど見ることがなかったいわきナンバー・福島ナンバーの車を見る度に、そう思い心がとても痛みました。
そういう風に考えて、しばらく時間が経った頃に、私は気づきました。
「そうだ!もし仮に、一定の場所に毎日通勤するのではなく、インターネット上で稼働できる何かしらの仕事があったら、何かやむを得ない事情でお引越しをするとなっても、そのお仕事をずっと続けることができるのではないか」
「転職する、という概念ではなく、旅行に行くというような、普通だったら仕事を休まないといけない日常のシチュエーションがあっても、インターネット上で仕事ができたら、パソコン1台とネットの環境さえあれば、お仕事が成り立つかもしれない」
と。
これに気づいてからの私の行動は、海王拳10倍で猛スピード状態でした(;^ω^)
当時は専業主婦状態でしたので、午前中のうちに家事炊事を済ませて、娘のリリコちゃんがお昼寝をする平日午後の昼下がりは、パソコンから、ネット上でできる仕事、在宅でできる仕事にはどんな種類があるのかを、とにかく探し出すことにしました。
土日は当時はまだ一応結婚生活が成り立っていたので、元夫ポポタンのお世話(?)もあって、あまりできなかったのですが・・・今思い起こせば、私の当時の気持ちを元夫に打ち明けたことは一度もなかったかもしれません(遠い目)
やがて、ネット上でできるお仕事の候補をいくつか見つけることになるのですが、、、
- ネットショップ
- アフィリエイト
- チャットレディ
※これはグレーな感じだったので調べてみただけ^^;;; - WEB記事ライター 等
初めて知るものばかりで、どれも最初はピンと来ませんでした(-_-;)
しかしながら、宇宙オーダーという言葉や引き寄せという概念を知らなかったとしても、強く強く願って、その願いというのが「世の中で困っている方々のために何か自分ができることを実現する!」というミッションも含まれていると、夢を叶えるための様々なヒントが散りばめられるライフイベントが起こるのです。
そのライフイベントとは、一見すると「いいこと」だけではありませんでした。
パッとそういう出来事に遭遇すると、「悪い出来事だったな」と最初は思ってしまってもしょうがないようなことだったりするんですよね^^;;;
実際、ネット上でできるお仕事の候補をどんどん調べていって、でも初めて知るものばかりだったので、もう少し調べようと思っていた時に、私の身にある大きな出来事(=どちらかというと、一見マイナスな出来事)が起きてしまいました。。。
つづく
追伸
人助けをすると自分の中で覚悟が決まると、自分の持っている能力以上の力がある日突如として発揮できるんだなと、当時を振り返ると感じます。
今回の【第3話】はちょっと長くなりそうだったので、次の【第4話】を後編としてお届けしたいと思いますので、次回更新もぜひ楽しみにしていてくださいね♪*^^*
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